電話口の声に張りはなかった。日本学生対校陸上選手権前日の2017年9月7日、東洋大の土江寛裕コーチに桐生祥秀のコンディションについて尋ねると、返ってきた答えはこうだった。
「9秒台どうこう言える状態じゃないよ、今回は」
男子100メートルのタイトルを争う多田修平(関西学院大)との勝負以前に、そもそも何本レースを走れるか…。学生最後の大会に臨んだ桐生は、決して万全ではなかったのだ。
■スパイクを履いたのは大会前日
伏線はロンドン世界選手権にあった。桐生は8月12日の400メートルリレーに3走として出場し、日本の銅メダル獲得に大きく貢献。その時、左太ももに違和感が出て、調整が遅れていた。
帰国してから8月中は回復に努め、スピードを上げる練習は一切なし。スパイクを履いて走ったのは大会前日になってからだった。十分な練習を積めていないため、本人も走りに力感がないと感じていたし、この状態で一気に出力を上げれば、故障してしまうのではないかという戸惑いも抱えていた。
100メートルの予選、準決勝が行われた8日は「(スピードを)上げるのが怖かった」「スターティングブロックをあまり蹴れないので、(スタートの飛び出しは)捨てている。力が微妙に入らない」と語ったほど。9日午前に200メートル予選を走った後も、続く100メートル決勝に「出るか決めてない」と慎重な姿勢を崩さなかった。
サブトラックの東洋大のテントに戻った桐生は、土江コーチ、後藤勤トレーナーと合流したが、陣営はなかなか決断を下せず、「ほとんど無言の状態が30分くらい続いた」(土江コーチ)という。
サブトラックの外には、気を揉んだ多くの記者たちが集まってきていた。棄権なら棄権で、改めて判断の理由を確認しなければならないからである。
程なくして桐生本人がサブトラックの出入口から、ひょいと顔を出し、報道陣に向かって少し照れくさそうに手を挙げた。結論を伝えにきてくれたのだ。
「決勝、走ります」
次の1本に全てをぶつけると覚悟を決めたとき、スタートは約3時間後に迫っていた。
■招集、スパイク…落ち着かなかったレース直前
いざ走ると決めたものの、レースまではいつも以上にばたついた。
100メートル決勝前、大会主催者の日本学連は異例の措置をとっていた。通常なら選手はスタート前、指定時刻に会場内の「招集所」に集まり、係員から点呼を受け、ナンバーカードなどの確認を受ける。招集所にはサブトラックでウオーミングアップを終えた順に、それぞれのタイミングで歩いていく。
だが、今回の決勝には世界選手権400メートルリレーで銅メダルを獲得したばかりの桐生と多田が名を連ねていた。注目度は高く、学連はサブトラックから招集所までの間に2人がファンにもみくちゃにされてはいけないと考えた。一度、決勝を走る全員をサブトラックに集め、学連のスタッフがガードしながら、まとまって招集所に向かうことにしたのだ。
他大学のコーチによると、この件のアナウンスは一応、サブトラック内の放送でも繰り返されていたそうだが、集中していた桐生と土江コーチには、うまく連絡が伝わっていなかった。
サブトラック内に集合する時刻になっても2人はスタート練習を繰り返していた。学連のスタッフに呼ばれた土江コーチは「そんなの聞いてないよ!」と語気強く反論し、慌ただしく桐生は出陣。土江コーチはアドバイスらしいアドバイスも送ることができなかった。
招集所に入ってからも落ち着かない。桐生のスパイクの左つま先がこすれて破れる寸前になっていたのである。桐生は履く段階になってこれに気づき、急遽、予備のスパイクに交換するはめに。
余計なことを考える間もなく足を踏み入れた福井県営陸上競技場のトラック。8000人でびっしり埋まったメーンスタンドを見上げた瞬間、桐生の体の中で弾けるものがあった。
「急にスイッチが入った」
■「きちんと準備すれば9秒8台も」
桐生が一躍、時の人となったのは4年前の13年4月29日だ。織田記念国際で当時日本歴代2位となる10秒01をマーク。成長著しい京都・洛南高3年生が、伊東浩司の日本記録10秒00に迫ったことで、日本人初の9秒台達成は時間の問題と思われた。
だがしかし、なかなか記録を塗り替えることはできなかった。けがに何度も泣かされた。それでも腐らなかったスプリンターは着実に力を付け、17年に入ってからは9秒台で走れる可能性を見せ始める。
例えば、4月の織田記念。タイムこそ10秒04だったが、この時は向かい風0.3メートル。向かい風での日本最高記録の好パフォーマンスだった。
5月のダイヤモンドリーグ上海大会も、そうだ。このレースはフライングで失格になってしまったが、土江コーチが「すごく調子が良くて、走っていたら間違いなく記録が出ていた」と悔しがる程の仕上がりぶりだった。
「10秒の壁」に跳ね返され、また跳ね返される中で、ふいに“歯車”が噛み合った。象徴的なのが今大会の開催時期である。
16年の日本学生対校は9月の第1金曜日から日曜日にかけて開催されたが、17年は8月30日までユニバーシアードがあった関係で、第2金曜日から日曜日にずれ込んだ。福井県陸協の関係者によると、「この競技場は9月の1週目だと夏風の南風で、ホームストレートは向かい風になる。だけど、2週目からは秋風で追い風になる」のだという。
もう一つは調整方法だ。桐生は世界選手権後、左脚に不安を抱えていたため、短い距離でトップスピードに上げる練習ができなかった。代わりに250メートルや300メートルなど比較的長めの距離を繰り返し走っており、これが“けがの功名”となって、知らず知らずのうちにストライドの大きな効率的なフォームにつながっていた。
そして訪れた歴史的瞬間。決勝、9秒98。
追い風1.8メートルと絶好の条件で、桐生の100メートルの総歩数は47と普段より1歩少なかった。
「長い距離の練習をやっていたので、100メートルで(終盤にスピードが)落ちる訳がないという自信があった」
多田に先行を許しても焦ることなく逆転。勝負も、タイムも、ものにした。
この快挙は、いくつかのプラスの要素とマイナスの要素が渾然一体となって生まれたものである。
土江コーチは指摘する。
「きちんと準備して伸び伸びと走れれば、9秒9台の前半、9秒8台もそんなに難しくない感覚を持った」
桐生も「ここがスタートライン」だと繰り返す。
「いろんなライバルがいて、9秒98という日本記録もどんどん変わっていくと思う。僕もここで終わりじゃない」
新たなナショナルレコードホルダーは12月15日に22歳の誕生日を迎えたばかり。「9秒98」というタイムには、まだまだ大きな伸びしろが残っている。(運動部 宝田将志)